2010年8月8日日曜日

パーティーの後で



あと4週間だけ残されている、十分な時間だろうか

穂村弘の『シンジケート』が出たのは1990年、20年前か、悪い時代じゃなかったのかもしれない
もう一つ『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』、『車掌』、『いじわるな天使』、『求愛瞳孔反射』、『回転ドアは、順番に』

川上史津子の『恋する肉体』

藤井貞和さんの『ことばのつえ、ことばのつえ』はいただいたものだから、大事にしたい、「カナリアのうた」の朗読は素敵だった、『人間のシンポジウム』、『ピューリファイ、ピューリファイ!』もいただきもの、『パンダ来るな』のCDは工藤さんに差し上げたから今手元にはない、初めて読んだ現代詩は藤井貞和さんの「雪、nobody」じゃなかったかな
それから『織詩』と『神の子犬』、いつもこうした詩集を手に取ると、「不必要な」重さや大きさに気付く、もし全ての本が液晶画面に浮かぶ姿になったら、決して誰も「不必要な」本を読もうとは思わないだろうな

谷川俊太郎の『コカコーラ・レッスン』、誰か高名な詩人か批評家が刊行時に「最高傑作」て言っているのを見て買った気がする、逆だったかも
『夜のミッキー・マウス』と『真っ白でいるよりも』、この2冊はお気に入りで、『夜』は本屋で立ち読みしてすぐ買った気がする、『白』は高校生の時のものかもしれない

そういえば吉増剛造さんがこの前のトーク・ショ―でジャン・ジュネの『シャティーラの四時間』を持っていたな、鵜飼哲さんが同席してたからかな、持っているのは『黄金詩篇』、『花火の家の入口で』、『ごろごろ』以降の詩集、昔アイルランドの紀行写真集が欲しくて、たしか文京区の図書館で見つけたんだよな、その時はまだ多重露光にトライしてなかった

辻井喬の『ようなき人の』、この詩集を見ると大学一年生の頃に友達とサークルを作っていた時期のことを思い出す、確かこのタイトルだけに惹かれて買ったんだけど、今はそんなことも言ってられないな

田中エリスの『かわいいホロコースト』は下北沢の古本屋で買ったんだけど、渋谷から二子玉川に向かう田園都市線の車内で酔っ払った女に、この本が欲しい、って言われたんだ

松浦寿輝先生の『吃水都市』、いつも「水」という主題には驚きがあるけれど、いつもそうした個人的感傷を越えていくエクリチュールに気づく

現代詩文庫は増え続けるから割愛、でも粕谷栄市の詩集がこれだけなのは惜しいことだ、確か松浦寿輝先生が粕谷栄市さんの自宅がある街を車で通りかかって、この街に日本で最高の詩人が住んでいるのだ、と想う文章を書いていたと思うけど、そういう感慨はよく分る、その人に会わなくてもいい、街に行って空気を嗅いで歩けばいい、という感じかな

粒来哲蔵の『穴』はもっとしっかり時間をかけて読むべきだった、そういう本は多い

吉岡実の『ムーン・ドロップ』は高松駅から10分くらい歩いたところにあって偶然入った古本屋で見つけたもの、素敵な店長が居て、色々親切にしてもらった思い出がある

『エリオット詩集』は大江健三郎の本に引用されているのを読んで古本屋で買ったんだっけ

先週は古本市で1954年の『荒地』、田村隆一の『詩と批評』を手に入れた、これが最後に買った本になっても、いいや


2010年7月20日火曜日

弱い人



新しい朝がやってくることがつらくて、出来るなら地球の裏側に逃げちまいたいけど

夜の散歩をする相手は、いないんだ

朝焼けは雨のしるし、鈍感であったり、繊細であったり、

たったひとりに赦された時間も終わり

純粋でまっすぐな感情をディスプレイに浮かべても、僕の罪が輝くだけだから、

殺さないでくれ、言葉にならない秘密があって、正午と零時をわけている

眠ることを、やめようか、今が始まった気がするから


2010年6月16日水曜日

二十七冊の本



赦された時間で、一体何冊の本が読めるだろうか、何度彼女と食事の席につけるだろうか。

部屋の中を廻って、大切な本をスーツケースに詰め込んでいく。

石川淳/狂風記
ジャコメッティ/私の現実
鮎川信夫/宿恋行
吉田健一/時間
ジム・トンプスン/残酷な夜
村上龍/だいじょうぶ マイ・フレンド
高橋源一郎初期三部作
ジャン=ルネ・ユグナン/荒れた海辺
J・D・サリンジャー全作品
ロベール・ブレッソン/シネマトグラフ覚書
ボリス・ヴィアン/うたかたの日々
島尾敏雄/死の棘/死の棘日記
小島信夫/抱擁家族
マニュエル・プイグ/ブエノス・アイレス事件
藤井貞和全詩集
マイケル・オンダーチェ/ビリー・ザ・キッド全仕事
テレサ・ハッキョン・チャ/ディクテ
ジョン・バース/旅路の果て
田村隆一/腐敗性物質
堀口大學/月下の一群
石川達三/僕たちの失敗
吉増剛造/花火の家の入口で
リチャード・ブローディガン/愛のゆくえ
レイモンド・チャンドラ―全作品
フィリップ・ロス/さようなら コロンバス
古井由吉/杏子
ポール・ニザン/陰謀


2010年5月22日土曜日

a little will



最近になってやっと 女の体を抱くときにさ そこには何かが入ってるんだなって 分るようになったよ

そうなのね でも それってどういうこと

中に何にも入ってないやつもいるってことだよ


私は男が帰ってくるのを朝まで待って、部屋の外に出たの

それで ねぇ どこに行くの

ただ 川を 見つめていたかったの でも 不思議ね 旗が流れてきたわ

2010年3月17日水曜日

spring to another summer



昔クロス・オーバー・イレブンというNHKラジオの番組が好きでよく聴いていた。エッセイのようなショート・ストーリーのようなMCの語りとAORやソフト・ポップ、あるいはラウンジ・ジャズが交互に挟まれる形で進行していって12時を少し過ぎたところで終わる。きっとそんな聴き方は誰もしていないだろうが、語られる話自体はとてもゆっくりしたテンポのMCと相まってアイスが溶けたウィスキーのように意味を薄めていき、当時フリージャズに傾倒していた僕の浅はかな思いこみによるものだろうが、選曲の現代から逃避したようなあまりの潔さと清冽さも加わって、どこかこの番組自体が一つの大きな悲しいジョークのように思えてしまうのだ。もちろん熱心にラジオのチューンをあわせていた時はそんなこと思いもよらず、ただなぜ音痴の中学生がコンクールで皆に囃したてられ涙を流す話をするのか、なぜそのストーリーが終わるとジョージ・ベンソンが流されるのか、訳も分からず一体この番組が誰に対して何を目指しているのかもわからなくて、ただ一週間毎に繰り返されるその放送をエア・チェックしていた時期を思い出すと、ベッドに寝そべっていた僕の顔には困惑に似た、けれどもまるで透き通った微かな笑みといえるものが浮かんでいたことは確かだった気がする。数多くあったラジオ番組の一つとして、そしてラジオの特質をなぞる様に、僕はまるで一つのふざけた時間の共有を行っていたんじゃないだろうか。家族との夕食やテレビを時にはひとり抜け出して部屋に籠り、名にくわ顔で周波数を探りその声を見つける。そして時間が来ると未練もなくスイッチを切り布団をかぶる。時間と書いてしまったが確かにその一時間や二時間こそ僕にとっての一時間であり二時間なのだ。

そんな記憶を引っ張り出してくる必要などもうあるのだろうか。どうやら番組も終わってしまっているようだ。でも僕はいまでもときどき真夜中が近づくと手のひらのMP3プレイヤーでFMの周波数をさぐり、あのとき聴いた未だかつて、そしてこれからも出会うことがないような声をさがしているのだけれど。気づいたら僕もその人の口調を真似て、固い唇と白い肌の思い出に似た物語を始める時が来ているのかもしれない。

部屋に詰め込まれた何百冊かの本の中から明日のために林浩平/裸形の言ノ葉、秋田昌美/ヴィンテージ・エロチカ、パトリック・ベッソン/ダラを持ちだして鞄に詰める。家の外の桜はまだ咲いていない。

2010年3月5日金曜日

松山の梅



松山へ旅行をした。待ち合わせをした人に連れられて、砥部町の梅祭りに立ち寄って、紅白の梅を見た。

軒先に並んだ手作りの漬物や梅干しのうち梅の実を味噌で漬けたものに手がとまり松山から大阪に出航したフェリーの船室で誰も寝静まった後につまむ。外では時化た海と風の音がボイラーかベッドで寝てる彼女の鼓動か分からなくなるほどに耳を打った。窯を覗いた後に手を十分に洗い上着を一枚脱いで土をこねてろくろに乗せる。手本を見せてもらおうと目を凝らすけれど岩のようにろくろの真中に据えられた両手の中に土が隠され次第に一本の蛇のようになって隙間から伸び出た後はいわゆる茶碗の形となる時間を真似できるわけがない。松山城から車に乗って山を越えて小一時間も進むと十字路の隅にさりげなくあったうどん屋に入り釜揚げうどんをご馳走になる。熱い茹で汁に浸かった両手いっぱいほどの中太麺を少量の味噌で溶いて柚子とたぬきと小葱を足したタレに絡めて食べるのだけれど麺を前歯や上唇や舌の先で噛み切った時の熱をそれから一週間も過ぎた今になっても思い出す。帰りの車の中で店主は山肌に出鱈目な化粧を施す趣味があってそれにかかる絵具代を稼ぐためにうどん屋を開いたことを知る。四国に色々と美味いうどんはあるけれどあの店は次元が違うという言葉を聞いてその意味が分かることが年を経ることに近いと空想してしまう。

僕がこの短い旅行のことを一枚の景色に描くことが出来るのはもう少し先のことだろうか。



2010年2月17日水曜日

明日の本、夜の香



特に言うこともなく、書くこともなく時間は過ぎていく。

それは嘘だ、同じことは二度と起こらない。たとえ同じように思えることでも、全然違った体験のはずなんだ。
これはいつか見た映画の台詞。その中にも雪の降る景色があったな、最後に大きな花火があがるんだ

だから年を経ることは大きな喜びのはずだ。一年前の涙が、思ってもみない意味と形を持ち始めるから。
これが3月に入って春を見ることを望む今の気持ちだ。桜はどこに咲いているのか。25歳になった。