最近は映画館に通うこともなくなった。
かといって家のテレビでDVDを見ることも好きにはなれないけれど、年末なのでジャン・ルノワールの映画を見て気分を盛り上げようと思った。
「草の上の昼食」
タイトルからして素晴らしい。ルノワールの映画は内容がどうこう言うより、映画の登場人物がみんな人間らしいところが素晴らしい。
なかでも女性の表象は抜群だ。
ユリイカの特集で、「この女性の胸と尻がなければ私は何もしなかった」という台詞があったが(うろ覚え)、そういう言い方も大好きだ。
主人公が裸になって湖で泳ぐシーンや、
「草の上の昼食」が終わって男と女が澄ましてそこから立ち去るシーン、
木にもたれて眠る男を朝食に呼びに行くシーン、
どれも明るすぎるような官能性に満ちている。
向井周太郎の「生とデザイン」を愛を告げに行くために乗った電車の中で読んでいたら、
ギリシャ神話では風に吹かれると妊娠するという伝説、口承があるらしいという文章にあたって(うろ覚え)興奮したが、
「草の上の昼食」でも嵐の後に恋が芽生えるのだ。
自分にはそんな経験があったろうか。
高橋源一郎の文章で思い出した、もちろんうろ覚えだけど
「僕が二番目に結婚した女性とは同じ大学だったんです、
僕は最初に結婚した女性と付き合っていて、彼女と面識なんてありませんでした、
でも春に、風に吹かれて桜の花びら散っていく時期に、偶然大学の正門で彼女に会いました。
彼女は風に吹かれて髪をなびかせて、僕に横顔を見せて立っていたんです、
その時僕は思いました、あぁ僕はこの女性と結婚することになるだろう、と」
そうとうに気分のいい話だけど、恋とはそういうものだよね。
散っていく桜だったら涙を流しながら見たことがある。その時は胸が張り裂けそうだった。今でもその場所に行くと思いだす。
不思議なことに、そうした体験はあとになると、悲しい気持ちと、いとおしい気持がないまぜになって心を揺さぶる。
誰がなんて言おうと、その体験は僕だけのものであって、その悲しみは僕の悲しみなんだ。だからいとおしいんだろう。
大江健三郎の「個人的な体験」のあとがきで、この小説を書いた時のことを思い出すと、微笑がもれる、と書いていた気がする。
そうだ、僕も、その時を思い出すと、微笑がもれる。
そんな大切なことを書いてくれた小説家は他にいない。