2008年12月29日月曜日

気分をだして、もう一度










最近は映画館に通うこともなくなった。
かといって家のテレビでDVDを見ることも好きにはなれないけれど、年末なのでジャン・ルノワールの映画を見て気分を盛り上げようと思った。
「草の上の昼食」
タイトルからして素晴らしい。ルノワールの映画は内容がどうこう言うより、映画の登場人物がみんな人間らしいところが素晴らしい。
なかでも女性の表象は抜群だ。
ユリイカの特集で、「この女性の胸と尻がなければ私は何もしなかった」という台詞があったが(うろ覚え)、そういう言い方も大好きだ。

主人公が裸になって湖で泳ぐシーンや、
「草の上の昼食」が終わって男と女が澄ましてそこから立ち去るシーン、
木にもたれて眠る男を朝食に呼びに行くシーン、
どれも明るすぎるような官能性に満ちている。

向井周太郎の「生とデザイン」を愛を告げに行くために乗った電車の中で読んでいたら、
ギリシャ神話では風に吹かれると妊娠するという伝説、口承があるらしいという文章にあたって(うろ覚え)興奮したが、
「草の上の昼食」でも嵐の後に恋が芽生えるのだ。

自分にはそんな経験があったろうか。

高橋源一郎の文章で思い出した、もちろんうろ覚えだけど
「僕が二番目に結婚した女性とは同じ大学だったんです、
僕は最初に結婚した女性と付き合っていて、彼女と面識なんてありませんでした、
でも春に、風に吹かれて桜の花びら散っていく時期に、偶然大学の正門で彼女に会いました。
彼女は風に吹かれて髪をなびかせて、僕に横顔を見せて立っていたんです、
その時僕は思いました、あぁ僕はこの女性と結婚することになるだろう、と」

そうとうに気分のいい話だけど、恋とはそういうものだよね。

散っていく桜だったら涙を流しながら見たことがある。その時は胸が張り裂けそうだった。今でもその場所に行くと思いだす。
不思議なことに、そうした体験はあとになると、悲しい気持ちと、いとおしい気持がないまぜになって心を揺さぶる。
誰がなんて言おうと、その体験は僕だけのものであって、その悲しみは僕の悲しみなんだ。だからいとおしいんだろう。

大江健三郎の「個人的な体験」のあとがきで、この小説を書いた時のことを思い出すと、微笑がもれる、と書いていた気がする。
そうだ、僕も、その時を思い出すと、微笑がもれる。
そんな大切なことを書いてくれた小説家は他にいない。


2008年12月22日月曜日

no women, no cry




















デイヴ平尾の歌を聴いていたら、いてもたってもいられなくなった

けれど、セックスは二人でするものだから、仕方なく読書をすることにした。

先週どうしてこの本が本棚にあるのかほとんど忘れかけていた小説を鞄にいれてバイト先に向かったら、
生徒にやらせたセンター試験の過去問に出題されていて、あぁこれは急いで読まなきゃと思って深夜に紐解いたけれど、
あまりにつまらなくて50ページでほっぽりだしたままになっていた
伊藤整の「典子の生きかた」

ここに書かれてある女の子の立場は時代があまりに違うから評価できないかもしれないが、
典子が家を出てしまって変化する環境に慌てているうちに、速雄の死に立ち会う機会を逃してしまい、
そのことを後に後悔して泣くシーンはとてもいい。
そうだ、女の子はこんな風に泣いて、そして爽やかに立ち直るのだ。
男は簡単に死んでしまうけれど。

どうしてこの小説が急に面白く感じられるようになったかというと、つらいことがあった時は、
というか、訳のわからない人生に対峙して、にっちもさっちもいかなくなった時は、
僕はいつでも小説や音楽に立ち戻っていったからだろう。

そして典子も同じようにトルストイに出会う。

struggle for pride というバンドのアルバムの最初でカヒミ・カリィが朗読してる詩というか文章は、
この小説を読むまでは、「文学的な言葉」を切り貼りしてつくったような(それゆえセンチメンタリズムが溢れる)
一筋縄ではいかない感触がしていたのだけれど、時代が違う女の子の言葉だと思えば、すんなり聴ける気もする。

飲み会には行きたくないな、もう少しこの本を読めば、何か分かりそうな気もする。

2008年12月16日火曜日