2010年11月12日金曜日

Breath


 私たちがまだ小さかった頃、夜中にベッドにもぐりこんで、呼吸の数を数えてたことがあったわね、これから100年生きて、一体何回こんなこと繰り返すんだろうって思ったら、突然息が吐けなくなって、背中がすっと冷たくなったこと、覚えてるかしら。

 それがはじめて体験した、私たちの時間だったと思うの。

 今ならわかるわ、息を吸って吐くまでの、瞬きの間に、全てのことは起こってしまうって。

 私たちがそのことに気がついたのは、ずいぶん遅かったわね、未熟だったのかしら。でもあの頃は、人生が永遠に続くと思ってた。だから代わりに、唄を覚えたの。

 本当に息を吸って吐くように唄うことなんて、彼にしか出来ないけれど、皆がそう憧れて、失敗を繰り返してきたこと、話すことは出来ると思う。そんなこともあったねって、いつかあなたに会ったらそう言って、笑ってくれるかしら。


2010年11月5日金曜日

心と体




たとえ汚辱にまみれても

あなたの体は私のものだから

もう心には、還らないで


2010年10月1日金曜日

today&today



今日を生きることしかできない、今日も、今日を生きることしかできない


2010年9月24日金曜日

観覧車に乗った日



空港に降りて市内に入るバスを捕まえる、真夜中を過ぎて道に霜が降りていた
半日遅れた便の出発を待ちながら、俺は一枚も写真をとらなかった、ただ手紙を書いていた

この小さな空港のレストランではアルバニア語を話す女しかいない

「会社からのサービスだ」
差し出されたコカ・コーラを飲みながら、男の台詞を思い出した

「私達の言葉を学ぼうとするあなたに敬意を表して英語は話さない」

少しも嬉しいわけじゃなかった、それでも俺は泣いた、今は必死なんだ、こんな二度と会わない他人が分るくらい、俺は必死なんだ、そう分ったから俺は泣いた

残りの客と反対の道を歩きながら、東京に電話をした、今は朝だろう、おかしいぜ、初めてこの街に来た気がするんだ

2010年8月21日土曜日

いましかない


不必要な重みと体積を伴った本が机に置かれていなかったら、僕は何かをしようとは思わなかったろう

過去と現在を上手に繋いでストーリー・テリングをこなすことが出来なくなってしまって眠れなくなった次の日に、
本屋で見た『HIP The HISTORY』と『New Horizons in Jazz Research』を見てすぐに気付いた、
今の俺にはエクリチュールが欠けている
すぐに近くを歩いていた後輩を捕まえて、HIP っていうのは今この瞬間にイケてるかイケてないかを最重要の関心事に据えて世界と対峙するアティチュードだって嘯いた

沈黙は罪だ、まったく個人的な意味を背負いながら

植草甚一さんの『僕がすきな外国の変わった漫画家たち』、僕にはこうしたおじさんはいない気がする、友達しかいない
ドナルド・バーセルミの『帰れ、カリガリ博士』『死父』、いつか高橋源一郎が紹介していたバーセルミの絵本が読みたい
藤井貞和さんの『詩的分析』、ジョン・ファンテの『塵に訊け!』、『中平卓馬の写真論』
そういえばピート・ハミルの『ボクサー』は原宿の Tokyo-Hipsters-Club で買ったんだったな、素敵な小説だと思う

意味のないことをする必要はない、ただ意味を殺したい気持ちはする

ジョルジュ・バタイユの『青空』、確か大学一年の時に、天沢退二郎訳だから買った
そういえば荒正人の『思想の流れ』には、いつまでも真面目な君、というソンタグの言葉がよく似合う
チェーザレ・パヴェーゼの『美しい夏』は先輩がいいって言うから買った、そういう本は捨てられないな

ただ不必要な質量を備えた書物に対して、限られた時間で出来ることはこうして名を連ねることだけだろうか

2010年8月8日日曜日

パーティーの後で



あと4週間だけ残されている、十分な時間だろうか

穂村弘の『シンジケート』が出たのは1990年、20年前か、悪い時代じゃなかったのかもしれない
もう一つ『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』、『車掌』、『いじわるな天使』、『求愛瞳孔反射』、『回転ドアは、順番に』

川上史津子の『恋する肉体』

藤井貞和さんの『ことばのつえ、ことばのつえ』はいただいたものだから、大事にしたい、「カナリアのうた」の朗読は素敵だった、『人間のシンポジウム』、『ピューリファイ、ピューリファイ!』もいただきもの、『パンダ来るな』のCDは工藤さんに差し上げたから今手元にはない、初めて読んだ現代詩は藤井貞和さんの「雪、nobody」じゃなかったかな
それから『織詩』と『神の子犬』、いつもこうした詩集を手に取ると、「不必要な」重さや大きさに気付く、もし全ての本が液晶画面に浮かぶ姿になったら、決して誰も「不必要な」本を読もうとは思わないだろうな

谷川俊太郎の『コカコーラ・レッスン』、誰か高名な詩人か批評家が刊行時に「最高傑作」て言っているのを見て買った気がする、逆だったかも
『夜のミッキー・マウス』と『真っ白でいるよりも』、この2冊はお気に入りで、『夜』は本屋で立ち読みしてすぐ買った気がする、『白』は高校生の時のものかもしれない

そういえば吉増剛造さんがこの前のトーク・ショ―でジャン・ジュネの『シャティーラの四時間』を持っていたな、鵜飼哲さんが同席してたからかな、持っているのは『黄金詩篇』、『花火の家の入口で』、『ごろごろ』以降の詩集、昔アイルランドの紀行写真集が欲しくて、たしか文京区の図書館で見つけたんだよな、その時はまだ多重露光にトライしてなかった

辻井喬の『ようなき人の』、この詩集を見ると大学一年生の頃に友達とサークルを作っていた時期のことを思い出す、確かこのタイトルだけに惹かれて買ったんだけど、今はそんなことも言ってられないな

田中エリスの『かわいいホロコースト』は下北沢の古本屋で買ったんだけど、渋谷から二子玉川に向かう田園都市線の車内で酔っ払った女に、この本が欲しい、って言われたんだ

松浦寿輝先生の『吃水都市』、いつも「水」という主題には驚きがあるけれど、いつもそうした個人的感傷を越えていくエクリチュールに気づく

現代詩文庫は増え続けるから割愛、でも粕谷栄市の詩集がこれだけなのは惜しいことだ、確か松浦寿輝先生が粕谷栄市さんの自宅がある街を車で通りかかって、この街に日本で最高の詩人が住んでいるのだ、と想う文章を書いていたと思うけど、そういう感慨はよく分る、その人に会わなくてもいい、街に行って空気を嗅いで歩けばいい、という感じかな

粒来哲蔵の『穴』はもっとしっかり時間をかけて読むべきだった、そういう本は多い

吉岡実の『ムーン・ドロップ』は高松駅から10分くらい歩いたところにあって偶然入った古本屋で見つけたもの、素敵な店長が居て、色々親切にしてもらった思い出がある

『エリオット詩集』は大江健三郎の本に引用されているのを読んで古本屋で買ったんだっけ

先週は古本市で1954年の『荒地』、田村隆一の『詩と批評』を手に入れた、これが最後に買った本になっても、いいや


2010年7月20日火曜日

弱い人



新しい朝がやってくることがつらくて、出来るなら地球の裏側に逃げちまいたいけど

夜の散歩をする相手は、いないんだ

朝焼けは雨のしるし、鈍感であったり、繊細であったり、

たったひとりに赦された時間も終わり

純粋でまっすぐな感情をディスプレイに浮かべても、僕の罪が輝くだけだから、

殺さないでくれ、言葉にならない秘密があって、正午と零時をわけている

眠ることを、やめようか、今が始まった気がするから


2010年6月16日水曜日

二十七冊の本



赦された時間で、一体何冊の本が読めるだろうか、何度彼女と食事の席につけるだろうか。

部屋の中を廻って、大切な本をスーツケースに詰め込んでいく。

石川淳/狂風記
ジャコメッティ/私の現実
鮎川信夫/宿恋行
吉田健一/時間
ジム・トンプスン/残酷な夜
村上龍/だいじょうぶ マイ・フレンド
高橋源一郎初期三部作
ジャン=ルネ・ユグナン/荒れた海辺
J・D・サリンジャー全作品
ロベール・ブレッソン/シネマトグラフ覚書
ボリス・ヴィアン/うたかたの日々
島尾敏雄/死の棘/死の棘日記
小島信夫/抱擁家族
マニュエル・プイグ/ブエノス・アイレス事件
藤井貞和全詩集
マイケル・オンダーチェ/ビリー・ザ・キッド全仕事
テレサ・ハッキョン・チャ/ディクテ
ジョン・バース/旅路の果て
田村隆一/腐敗性物質
堀口大學/月下の一群
石川達三/僕たちの失敗
吉増剛造/花火の家の入口で
リチャード・ブローディガン/愛のゆくえ
レイモンド・チャンドラ―全作品
フィリップ・ロス/さようなら コロンバス
古井由吉/杏子
ポール・ニザン/陰謀


2010年5月22日土曜日

a little will



最近になってやっと 女の体を抱くときにさ そこには何かが入ってるんだなって 分るようになったよ

そうなのね でも それってどういうこと

中に何にも入ってないやつもいるってことだよ


私は男が帰ってくるのを朝まで待って、部屋の外に出たの

それで ねぇ どこに行くの

ただ 川を 見つめていたかったの でも 不思議ね 旗が流れてきたわ

2010年3月17日水曜日

spring to another summer



昔クロス・オーバー・イレブンというNHKラジオの番組が好きでよく聴いていた。エッセイのようなショート・ストーリーのようなMCの語りとAORやソフト・ポップ、あるいはラウンジ・ジャズが交互に挟まれる形で進行していって12時を少し過ぎたところで終わる。きっとそんな聴き方は誰もしていないだろうが、語られる話自体はとてもゆっくりしたテンポのMCと相まってアイスが溶けたウィスキーのように意味を薄めていき、当時フリージャズに傾倒していた僕の浅はかな思いこみによるものだろうが、選曲の現代から逃避したようなあまりの潔さと清冽さも加わって、どこかこの番組自体が一つの大きな悲しいジョークのように思えてしまうのだ。もちろん熱心にラジオのチューンをあわせていた時はそんなこと思いもよらず、ただなぜ音痴の中学生がコンクールで皆に囃したてられ涙を流す話をするのか、なぜそのストーリーが終わるとジョージ・ベンソンが流されるのか、訳も分からず一体この番組が誰に対して何を目指しているのかもわからなくて、ただ一週間毎に繰り返されるその放送をエア・チェックしていた時期を思い出すと、ベッドに寝そべっていた僕の顔には困惑に似た、けれどもまるで透き通った微かな笑みといえるものが浮かんでいたことは確かだった気がする。数多くあったラジオ番組の一つとして、そしてラジオの特質をなぞる様に、僕はまるで一つのふざけた時間の共有を行っていたんじゃないだろうか。家族との夕食やテレビを時にはひとり抜け出して部屋に籠り、名にくわ顔で周波数を探りその声を見つける。そして時間が来ると未練もなくスイッチを切り布団をかぶる。時間と書いてしまったが確かにその一時間や二時間こそ僕にとっての一時間であり二時間なのだ。

そんな記憶を引っ張り出してくる必要などもうあるのだろうか。どうやら番組も終わってしまっているようだ。でも僕はいまでもときどき真夜中が近づくと手のひらのMP3プレイヤーでFMの周波数をさぐり、あのとき聴いた未だかつて、そしてこれからも出会うことがないような声をさがしているのだけれど。気づいたら僕もその人の口調を真似て、固い唇と白い肌の思い出に似た物語を始める時が来ているのかもしれない。

部屋に詰め込まれた何百冊かの本の中から明日のために林浩平/裸形の言ノ葉、秋田昌美/ヴィンテージ・エロチカ、パトリック・ベッソン/ダラを持ちだして鞄に詰める。家の外の桜はまだ咲いていない。

2010年3月5日金曜日

松山の梅



松山へ旅行をした。待ち合わせをした人に連れられて、砥部町の梅祭りに立ち寄って、紅白の梅を見た。

軒先に並んだ手作りの漬物や梅干しのうち梅の実を味噌で漬けたものに手がとまり松山から大阪に出航したフェリーの船室で誰も寝静まった後につまむ。外では時化た海と風の音がボイラーかベッドで寝てる彼女の鼓動か分からなくなるほどに耳を打った。窯を覗いた後に手を十分に洗い上着を一枚脱いで土をこねてろくろに乗せる。手本を見せてもらおうと目を凝らすけれど岩のようにろくろの真中に据えられた両手の中に土が隠され次第に一本の蛇のようになって隙間から伸び出た後はいわゆる茶碗の形となる時間を真似できるわけがない。松山城から車に乗って山を越えて小一時間も進むと十字路の隅にさりげなくあったうどん屋に入り釜揚げうどんをご馳走になる。熱い茹で汁に浸かった両手いっぱいほどの中太麺を少量の味噌で溶いて柚子とたぬきと小葱を足したタレに絡めて食べるのだけれど麺を前歯や上唇や舌の先で噛み切った時の熱をそれから一週間も過ぎた今になっても思い出す。帰りの車の中で店主は山肌に出鱈目な化粧を施す趣味があってそれにかかる絵具代を稼ぐためにうどん屋を開いたことを知る。四国に色々と美味いうどんはあるけれどあの店は次元が違うという言葉を聞いてその意味が分かることが年を経ることに近いと空想してしまう。

僕がこの短い旅行のことを一枚の景色に描くことが出来るのはもう少し先のことだろうか。



2010年2月17日水曜日

明日の本、夜の香



特に言うこともなく、書くこともなく時間は過ぎていく。

それは嘘だ、同じことは二度と起こらない。たとえ同じように思えることでも、全然違った体験のはずなんだ。
これはいつか見た映画の台詞。その中にも雪の降る景色があったな、最後に大きな花火があがるんだ

だから年を経ることは大きな喜びのはずだ。一年前の涙が、思ってもみない意味と形を持ち始めるから。
これが3月に入って春を見ることを望む今の気持ちだ。桜はどこに咲いているのか。25歳になった。

2010年1月21日木曜日

友達の日



1月19日は友達の日だった。気分を重くして過ごす。何かをするわけでもなくて、夕方に近所の神社に行って手を合わせただけ。

そういえば、あいつに似た顔をしているやつを見たことはない。
あいつの本当に笑った顔も見たことはない。

皮肉屋だったから、自信たっぷりの顔をしていることが多かったんじゃないかな。

なんでそんなことになったか忘れたけど、大学近くの喫茶店で、お互いの書いている文章を見せあった時があったっけ。
その時小ぶりのテーブルに向かい合って、俺があいつの小説を読んでいると、「こういうのはドキドキするもんだよね」って言ったんだ。
なんだか絵に描いたみたいなことをいうな、そういや喫茶店で原稿を読みあうなんて、少しイメージが古臭いんじゃないかと思って、なんだか面白くなってしまった気がする。

それから俺の言ったあてずっぽうの感想をあいつはノートに書きこんでいた。そんなに熱心に、俺の言葉にうなずくあいつは見たことがなかった。
必死になっているぜ、それは決して見ていて気持ちのいいものじゃないけれど、そういう時もやってくるんだな、って思った。

21歳だか22歳になって、あぁ大学も残り少ないしやりたいことやろうって思ったかどうだか知らないけれど、小説を書こうなんて、どうしてなんだろう、
やれる時間も少ないから旅行に行こう、ってそんなことは、思わなかったのかな、
思わずに、小説を書こうって思ったんだ、そうだな、どうしてだろうな。


2010年1月4日月曜日

What is your next song?



あまりにも時間がないことに気づいて、いますぐに歌わなければいけない、と思った。
「私が歌いたいのは、もっと別の声なんだ」、か。
そんな風に思うのは、少し頭のおかしいことだろうか。

少しだけ去年のことを思い出した。あの頃は色々と切羽詰まった気がしていて、はやく誰かに助けてもらいたかった。
今も状況は大して変わらないけれど、不思議と女に救われたいと思うことはなくなった、かな。

昔「君の嘘が僕の嘘になれば」って歌を考えて、その言葉の意味を友達に尋ねて考えさせていた時期があった。
what is your next song? はそれとは違って、自分の中で生まれたはっきりした意志からでてきた言葉だと思う。

「次の命へ」って書いてしまうと、抽象的だし大それた話に聞こえるから、軽くシンプルにしすぎるのは僕の悪いくせかもしれないけれど、
本当にそう思うんだ。「新しい命」ではなくって、「次の命へ」進まなければいけないって。