2009年2月24日火曜日

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一時間ごとに変わるような自分の感情の揺れ方に厭になる毎日だったけど、最近やっとそんなことを気にしてもしょうがないと、当たり前のことが分かった。これまでだってそうだったのに、どうしていつも同じような悩み方をするのかな。

海にいるのは人魚じゃなくて浪ばかりさ、潜ってみればいつもと同じ北海さ。
これはもちろん中原中也の詩とは全く関係のない引用だけど。

いつだって、頑張りたいと、自分のしたいことをするだけだと思った時は、コーチや先輩や友達の顔が浮かんだ。
結局僕はそういう風にできているから、自然に体を動かしていればきっと大丈夫だろう。
深く自分の心に従えば、いつだって優しくなれるはずだ。誰かが傍で手を振ってくれたから、ここまで来たんだろう。

うまい台湾料理を食いながら少しづつ元気を取り戻す。
土からとれた野菜と、血を流した肉が食べたい。

今日は久しぶりに恵比寿の写真美術館に寄ってきた。ただガーデンプレイスを散策して三越で佐世保バーガーを買って、ドアノ―の写真を見たかっただけなんだけど、つい本屋によって写真集を眺めてしまう。
もちろん吉増剛造の新著を買うべきなんだろうけどそれは一億人が買うからいいとして、長野重一さんの「遠い視線 玄冬」を買った。最初は、どこかで聞いた名前だと思って手にとっただけだった。

まず立ち見して、興奮した。あまりに素晴らしくて、と思って。いやいや最近センチメンタルだから何かここにないものが写っていれば感動するだけだ、と思って、とりあえず隣の写真集に手をのばしてめくってみたけれど、現実の非現実的瞬間をうつした写真には何もピンとこない、と思って、落ち着くために本屋を出て地下の展示を見に行った。1,2,3,と見て待ち合わせの時間に遅れちゃまずいから、と思って、もう一度「遠い視線」に目をやっても、その興奮は消えていない。

これはすごいんじゃないか、でもどうしてこんなに惹きつけられるのか。まず東京が舞台だ。人が写っている。風景が写っている。当たり前のことだ、と言うかもしれないが、本当にそうか、とこの写真集を見ながら思った。
互いに関係のない人達が、ただその場所にいたということで、写真の枠におさまっている場合が多い気がする。
彼らは視線をかわすことはない。

でもそのことが、決して冷たい感覚をつくらない、むしろその反対だろう。

どうしてだろうか、よく分からない。

あまりにもディスポジションが完璧だから?

もちろんそれもあるけれど、この写真達を見ていると、「内」と「外」が明確に現れたり、その境界が揺らいだりすること、それがまったく関係のない人たちの存在でつくられることが、よく分かるからかもしれない。
そのことが僕の感じるあたたかさと、どう繋がるかは、分からない。


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