2009年1月15日木曜日

last dance for me



午前中の勉強はどこかに置いて、作った曲に合わせて歌ってみる。結局歌詞を大分変えて完成させた。
映画でも小説でも、男と女がいればそれでいいやと誰かと話すたびに言っていた時期があった。
覚えたての言葉を使って、少し離れた相手に向かって、叫んでみる。それが詩だ、と誰かが言ってた。
でも詩の場合は「作者」の署名がなんだかんだ言ってもあるのに対して、歌は少し事情が違うから、工夫しなくちゃいけない。

詳しい話は省略。

学校に行って同級生達とランチを食べて少し研究の話をする。
知識人の社会的役割よりも、俺が知りたいのは知識人の思考の限界がどういった環境で決定されるのか、あるいはされるべきなのか、ということだろう。ようするにどう生きたのか、ということだ。いや違うかな。

それからゼミの先生のコンサートのお手伝いに行く。
自分が機嫌の悪い人間になっていることに気づく。他人に対して怒ったことなんてこの2年くらいなかったのに、最近は毎日だ。

打ち上げも終わったので先輩達の飲み会に顔を出す。

頭が痛い。今晩は眠らずにいたい。
月曜日に麓健一のライブを見に行った。とてもいい歌が聞けた、いいひとたちだった。
だから俺も、久しぶりに、そしてすぐに歌を作りたいと思った。

渋谷のタワレコでCDを試聴したとき、ポップに「my space」で超人気!てあって、どんな音か想像できたけど、
果たしてその通りでエコーとディレイがかかりまくった音は確かにMP3で聞くには好都合だな、と思った。
弱者の立場で歌われる言葉が多くの若い人たちの共感を呼ぶのはよく分かる。でもそれだけならCDを買おうとは思わなかった。
試聴したときに、とても美しいと思った。おかしくなるくらい、少し気が狂ってるんじゃないかと思うくらい、きれいな声だった。

だからライブを見ようと思った。会うチャンスがなくなるとしても。

ネットのニュースで、派遣労働者が作った映画が話題、という項目があって、気になって調べた。

ニコ動というものがあって、そこでアニメ音楽をサンプリングしたりすごいクオリティーの作品が生まれている、と高校の同級生が宅飲みで言い出したので、こいつらは単に音をつなげているだけでパソコンの中の世界でうだうだやってるだけだからさっさと死ねばいいと俺が言うと、そいつは激高した。
ガザ地区ではイスラエル軍が市民を住宅に集めてそこを砲撃して30人以上殺害したというニュースもネットで見た。
you tube やニコ動で、誰かが自分の顔を映して、「私は市民を住宅に集めてそこを砲撃するイスラエルの戦争を非難します」と言うことはあるのだろうかと思った。それはアニメ音楽をサンプリングするより意味のあることじゃあないだろうか。もしかしたらそんな映像もあるのかもしれない。

だから派遣労働者が自分の生活を撮影した、というニュースを見た時は、そのことかな、と思ったのだけれど。
でもそれは少し違って、ちゃんとした映画のようだった。
「派遣労働者」といったメディアの言葉に負かされていない人だと感じた。
2006年に撮影されていると知って、俺の発想や思考は遅れているなと痛感する。
そしてその監督が麓健一のPVを撮っていた。

ライブを見ていて思ったことは、この音楽は、この時代と、世界と(「時代」も「世界」も無いのかもしれないが)共振している、ということ。イスラエル軍が兵器を市民に使用して、派遣労働者が社宅を追われて、政府高官があっさりと切り捨てるような言葉を吐く、という事実が起こっている「今」と同じ時間を共有する音楽だと思う。

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