2009年1月27日火曜日

さよならだけが人生だ/恋も二度目なら



最近読んでいる本が大戦時にチベットに潜入して対中戦線を築こうとした諜報員の書いたものだからか、コンビニに公共料金の振り込みに出かける時に靴下が見つからなくて裸足にサンダルをつっかけて家を出た。
タバコがそろそろ切れるので新しいものをと思ったらラクダの絵が目に入ったのでCAMELを買った。
晩飯にいつものようにそばを食べようと思ったのだけれど、たしか去年の4月にできたインド料理屋の前を通って中を覗いたら誰もいない様子だったので一旦通り過ぎたのだけれど、心の中で待てと呼ぶ声がして、ラクダの絵のタバコを握って店に入った。

本当に店には誰もいなくて俺は一人でマハラジャビールとインド豆煎餅と揚げ餅とサラダとチキンカリーとナンを食べてラッシーを飲んだ。店長は相当暇そうで何度も話しかけてきてくれた。味はそうとう律儀なもので、日本人相手に控え目にしているんじゃないかと思った。大きなお世話だが、平日とはいえこの時間帯に客がいないのは危機的かもしれない。この辺りは住宅街で家族持ちがメイン層だろうけど、あまり一家で今夜はカレーを食べるか、なんてことは少ないだろう。それより向かいのお寿司屋のほうが繁盛している気がする。インド人の悲しみか。接客態度は最高だった。

やっと一人になれた、か。確か豊田道倫さんの歌だったと思うけれど。

この一週間はいろいろなことがあった気がする。

高橋源一郎の新しい小説で素晴らしいことが書いてあった。
「昼」と「夜」の違いは、単に陽が出ているかどうかということじゃない、「夜」が明けて「昼」になればまったく違った人間になっている、それが「夜」の時間だ。
俺も今は、そんな長い「夜」を渡っている、そう思いたい。

先週の金曜日の夜はそんな「夜」だと思って、新宿JAMへ行って工藤冬里さんの歌を聞いてきた。その日は金子寿徳さんのためのイベントだったのだけれど、僕は光束夜の音楽はよく分からなくて、正直申し訳ないなと思っていた。
光束夜のCDは一枚しか持っていない、それも灰野敬二が帯にコメントを書いて、工藤冬里がライナーを書いていたのでこれは聴かなければいけない、と思って買ったものだ。このライナーの工藤冬里の文章はあまりに素晴らしい。この日に朝の5時に始発で帰った時にもう一度この文章を読まなければいけないと思った。そこにも「一人になった」という言葉があった。だけど「一人になれた」とも書いてあった。
「夜が限りなかったら」という曲は、たしか工藤冬里はこの夜歌っていたと思う。しかしあまりに淡々と曲が始まって終わるので、何かセンチメンタルになる暇もなかった気がする。最後の曲が終わる時に、「あー、あー」と絶叫していた。これは光束夜の歌の「あぁ」のことを思って出した声なのかもしれないけれど。

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