2009年4月23日木曜日

Believe Holiday




にするべきだったな、「Blue Hoiday」じゃなくって。

久しぶりに Robert Wyatt の1974年のライブ盤を聞いたらとっても良くって驚いてしまった。
確か2,3年前にこのCDを買った時は、どうにもうまく集中して聞けなかった気がする。
色々あった結果かな。
最後の曲が「I'm A Believer」なので、Believe という言葉に行き当たったわけだ。


「無駄なことなんて一つもない」と言ってくれる知識人がいつかテレビや新聞の中にも現れないかなと思っているんだけれど、噂を聞かないところを見るとそういないのかもしれない。
頭のいい人というのは、無駄なことをしない人、ていうのが普通の考え方なのかな。

去年のことを思い返して、無駄な時間だったな、て思うことはやめたい。
でも彼女がそう思っているとしたら、とてもつらいことだな。
すべては自分がしたことなのに。

この三ヶ月のぐらいのことを思い返すと、自分が最低も最低の、てめぇのことしか考えられない人間だったなとよく分かる。今はよく分かるのに、その時は何も気づいていなかったのだろうか。
頭が少しおかしかったのかもしれない。いまだってたいして変わらないけれど。今日も結局言うべきことを言えなかった気がする。
少しづつ良くなっていけばいいと思うけれど。

少し前は、こうしたことを書くのは、自分を卑下しているようで、自慰行為をしているようで嫌だった。

そうじゃないこともある。そうじゃない書き方も、きっとあるんだろう。
自分を責めることはやめようと思うが、どれだけひどいことをしたのか、はっきりと理解したい。

文字にする以上、きっと誰かが読んでいると考えることは、重要なことだ。

昔つきあってた子は、僕のblogを読んで、これは私のことを言っているんじゃないの、って僕に問い詰めてきたことがあった。
その時はただ、やめてくれよ、と思ったけれど、今になってみると、悪いことをしたな、と思う。
少しは成長したいと思うのだけれど、同じ失敗をしているのかもしれない。

誰か好きな小説家の言葉を読んで、これは私のことを言っている!と思うことはよくあることで、
それは素晴らしいことだけれど、恐ろしいことでもある。
優れた文学には、社会の辺境で生きている(と感じている)人間にも伝わる力がある、ということだけれど、
その読者が、作品と自分の間で感情を昇華してしまって、どこか違う人に、場所に向かうことがないのなら、
果たして意味があると言えるだろうか。

blog は公開モノローグと誰かが言っていたけれど、それはいやだな。

人生には素晴らしいことがたくさんあると知っていたから、それを見せたかったんだ。

10年か、20年経って、もう一度あなたに会えたら、あの時はうまく言えなかったことを言いたい。



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