2009年4月2日木曜日

きみの嘘が僕の嘘になれば






クロアチアではよく空を見上げたり誰もいない道を歩いたりしていた。

プリトヴィッツェでバスの時間を待つことに飽き飽きしてムキニェまで民宿を探して山道を登った時は、
空腹に負けてへたりこんでしまった。脇の下の皮膚がひどく敏感になって、林の上で鳴く鳥の声が響いた。
ブリユイ島までの船が欠航した帰りに車道をヒッチハイクに失敗しながら歩き続けて、だれかの畑に倒れこんでアーモンドの花を見た。
ユーゴロックのカバーバンドをホテルのカシノで見た帰り、真っ黒で明かりもないプーラの海沿いの道で少し大きな声を出した。バンドの演奏がひどくて熊が怖かったからだ。

バスで色んな町にいったけれど、特に目的もなくって、ラキヤから始まりリュバユハにサラタとクルフ、ゴルゴンゾーラチーズを絡めたメソをメインディッシュにデザートはパラチンケ・マームレイドを頼んでエスプレッソを飲む。たくさん葉巻を吸うことを覚えた。
夏のドブロブニクで見た星空と、背中にあたる岩肌が忘れられなくて、ビールを飲んでザグレブの夜をぶらつきながら、ああこの街は昔ユーゴスラヴィアだったんだと感じた。
白く大きな建築の中庭に店があり、真っ赤な絨毯と緑色のキルトが張られた椅子があって笑わないウェイターがいて、みんなが大きな声を出して騒いでいるが、通りは静かだ。ベンチには男と女がいて、そのままセックスできる体勢で座っている。
秘密の話をする場所が、ここにはたくさんある気がする。

毎日図書館で80年前の新聞を読みふけった後は、気に入ったレストランを探し、音楽を聞けるバーでビールを飲み、天井の高い映画館の暗闇で眠った。
東京でしていることと少しも変わらない。
どこにいったって、結局できることは一つしかないのかもしれない。

ただ星を見ている時は、昨日とは違うところにいる、遠いところまで来たんだと強く感じた。
だから、あの人と僕が同じ空を見ているなんて、とても言えない気がする。
噴水の縁に寝転がると、金色のマリア象とオレンジ色の大聖堂が一緒に見えた。
どうしても、空が昨日の空と同じなんて思えなかった。

マドンナとか、80sがやたらにかかるクラブに行った帰りの車の中で、
とびきり元気で1時間くらい男の話を喋っていた女の子達と、
「I just call to say I love you」って一緒に歌った時は嬉しかった。

川をみている時は、同じだった。
大学に入って住んだ部屋が多摩川の近くだったから、よく河川敷を散歩した。春は桜が咲いた。
草野球をする小学生や、犬を散歩させている主婦や、釣りをするおじさん達がいて、
僕は川の流れと、対岸をずっと眺めていた。1時間でも、2時間でも。
そのときの気持ちは、こんな国まで来ても、不思議と変わらない。
ドラヴァ川には橋がかかっていて、夕陽がとてもきれいだった。
みんな同じことを考えているといい。



「はるか遠くまで見とおすことができた―
 しかし、ヴェルマが行ったところまでは見えなかった。」
この言葉の意味が少し分かるようになった。

彼女のことを理解するためには、きっと同じものを見る必要がある。

二人のいる場所はもう、あまりに違うから。

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