2009年4月2日木曜日

くさをなめる/つばをはく



成田に着いた時は雨が降っていて、これじゃあ花見も無理かなと思って、上野に向かうスカイライナーに乗りながら、ただ単にここにいるのはつらいことだな、と考えた。

とにかく僕はまだ桜を見ることはできる、それはラッキーなことだ。

ヤセノヴァツに行くには電車を乗り換えなきゃいけない、とザグレブの日本人に言われていたから、途中のスニャで飛び降りたのだけれど、駅員に乗り換え電車の話を聞いたら「今いっちまったよ」と僕が飛び降りた電車の尻をさして言うから、村に2軒しかないカフェでカプチーノを飲んでベリカ・ピッツァを食べながら4時間待った。

他人の言葉なんて信用するべきじゃないな、と最初は思った。
でも、要するに旅をしている時は、出来る限り苦労して自分で情報を集めて、好きなように行動しなくちゃいけない、ってことだ。
少なくとも、僕個人のルールとして。
それを他人の話を鵜呑みにして電車を降りたのだから、これは罰なんだと考えた。

旅は予想のつかないことが起こるから面白いんだよ、この時間を楽しめばいい、なんて物知り顔で使い古された言葉を吐くやつ
がいるけれど、目的がない、残りの時間も少ない、そして失敗からしか学べない、という悲しみを、そいつは分かっているんだろうか?

無人の駅からセンターに向かう一本道を
彼女が乗り換えたんじゃなくて、僕が飛び降りただけ、と歌いながら歩いた。

昔は、何でクラスメイトが休みになるとインドやアフリカにでかけていくのか分からなかった。朝5時に起きてジョギングして、ジムでサンドバッグを打ち込んで、次の試合に備えなくちゃいけないのに、歴史も文学もしらない国で世界遺産を見ることなんて、何の意味があるのか分からなかった。遠くにいくためにはここにいればいい、飛行機に乗る必要もないと思っていた。

延期された日常を過ごしていてよく分かったのは、僕には予知能力が欠けているということ。
たぶん、自分にとってこれから必要になるものを判断する能力は、あると思う。
でも周りをしっかり観察して、これから起こることを予感する、未来をみる能力が、足りない気がする。
「恐ろしいことが起こっているんだぞ」
映画「いつか読書する日」で、岸部一徳が幼児虐待で逮捕された母親に向かっていう台詞。
それが分からないままに、現在を送るというのは、ひどいことだろう。

君と世界が戦うときは、世界の側につきたまえ、
っていう知られた言葉は、僕が社会との接点を考える時に助けになる。

完全なる疎外だけを認識するんじゃなくて、やっぱりどこかで出会っていることを感じること、それを意識し続けること、
できればその糸を目に見えるものにすることが、今の僕には大切なことに思える。

旅をすることは、未来を見る力を養ってくれる気がする。
それがなければ死んじまうから。


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