2009年4月28日火曜日

勇気を出して、もう一度



「恋する距離」ってタイトルも変えちまおうと思ったけれど、意味合いは気に入らなくてもパッと見た感じは悪くない気もするので
もう少しこのままにしておこう。

acatate から出版された「ビリーのグッド・アドヴァイス」の中に
Don't fall in love. (恋に落ちるな)
という格言があって、この本を買った時僕は確か19歳だったから、一体この言葉が何を意味しているのかさっぱり分からなかった。
それよりそのすぐ下にある言葉、
Create confusion: it helps. (混乱を創りだせ。それは助けになる。)
の方がしっくりきた。というのは、女の子にふられたり試合で負けたりにっちもさっちもいかなくなっていた時期は、このメランコリーが助けになるんだ、と思いこむためにこの言葉を使っていたからだ。一体何の助けになったのか、まるで分からないけれど。
あとづけで言うなら、自分が何を選択しなければならないかよく分かる、というか、選択しなければならない状況で選択したものこそ自分にとっては大切なものだと分かる、ということかな。
でも思い返してみても、あんな混乱は二度とごめんだけど。

恋に落ちない、ということが僕にとっては今は大切なことだと思う。
ていうかもう落ちてるんだから、これからはそれを越えて、あるいはもっと深く、愛することを学ばなければいけないな、ということ。
恋に落ちる瞬間を持続させようとしたり、それに浸ったりすることは間違ってる。
Don't fall in love が果たしてそんな意味合いの言葉なのか分からないけれど、3ヶ月前にこのことが分かっていればと思う。

だからもうそろそろ自分のことじゃなくって、愛するものについて語り始めたい。

4月5日は今から3週間前のことで、僕がクロアチアから帰ってきてから5日目だと思う。
まだ桜が咲いていて、僕は日本に帰ってきてよかったと思った。
国立で、工藤冬里さんと工藤礼子さんのライブがあると知ったので、必ず見に行こうと、3月にクロアチアに行く前から決めていた。日本に帰ってきたいと思った理由の一つが、工藤冬里のライブを見ることだった。

国立の駅で降りたのは2回目か3回目だったと思う。
駅前にも桜が咲いてて、学生達が集まっていた。
バスに乗って会場のホールまで行く。隣がスポーツクラブで、すぐ前が公園になっていた。何本も大きな桜があって、花見をしながら大きな声を出している人がいたり、ホームレスがいたりした。ホールの前で葉巻を吸いながら、公園の電灯に照らされた一番大きな桜を見ながら、実家の近くの公園に咲いている桜を思い出した。
工藤冬里は昔国立に住んでいたらしいから、今日のライブはきっと素敵な雰囲気になるだろうな、と思った。
昔住んでた場所に戻って、桜を一緒に見れたら、どんな気持ちになるんだろう?

工藤冬里がピアノを弾いて、工藤礼子が歌うスタイル。
会場はたぶん馴染みの人達が多いみたい。
吉祥寺で見た時は会場が満員で、二人の姿はほとんど見えなかったんだけれど、今日は全部見えるから嬉しい。
工藤礼子の歌う姿は、その歌と一緒で、弱々しく見えても、女の人が持っている強さと自由を充分すぎるくらい表現している。
少女と、成熟した女性と、子供を持つ母親の全ての印象と力強さが合わさっている感じで、僕の周りにこんな人はいないな、と思った。
工藤冬里のピアノはあんまり上手すぎて、何も言うことができない。僕は漣のように音をかさなていくところが好きだけれど、工藤礼子が砂の上をゆっくり歩く後ろで大きな海を作ろうとしている、とでも言ったらいいのかな。彼がギターを弾いたり歌ったりする姿と同じで、のびのびとしながらどこか危うげなところがとてもカッコいい。

あまりに気持ち良くて、少しうとうとしてしまうくらい。

でも本当は、素晴らしい、最高だ、と思う一方で、演奏に集中できない気持があった。

一体僕はどうしてこういう音楽が好きなんだろう。
この会場には50人くらいしかお客さんがいないし、関係者じゃなくって純粋なファンだという人は少ないかもしれない。
僕はどうしてもっと皆が聞くような、CDがたくさん売れているような音楽より、工藤冬里さんの音楽が好きなんだろう。

最近の僕は、自分が厭になることが多くて、いやそうじゃなくて、自分が厭になりきれないところがもっと厭で辟易してしまうことが多いのだけれど、そんな僕がこんな素晴らしい音楽を聴いてていいんだろうか。

いやもっと言えば、チャーリー・パーカーを聞いたり、アルゲリッチを聞いたりしている方が、誰かと話をあわせることも出来るし、誰かに説明するのも簡単だ。チャーリーもマルタも素晴らしい音楽家で、それぞれの歴史を背負っていることは変わりない。
でも僕は音楽好きの友達に聞いても知っている人は1人しかいない工藤冬里の音楽がたまらなく好きなのだけれど、それは一体どういうことなんだろう。

結局他の人が知らないから、という理由で魅力を強く感じているんじゃないだろうか。
素晴らしい音楽、というだけなら、みんなが知っているものでもいっぱいあるだろうし、そういう音楽を聴いている人にとっては、
僕の趣味なんて理解できないだろう。
まるで狭く閉じられた穴に入り込んでしまっているように見えるんじゃないだろうか。

そうじゃないはずだ。だから、どうして工藤冬里の音楽があまりに素晴らしくて、僕にとって必要なのか、きちんと理解しなくてはいけないと思っていた。昨日のライブから今日までずっとそんなことを考えていたけれど、これは演奏を聴くのにあんまり良い状態じゃないよね。

最後の曲はホタルの歌だった。少しかがみこみながら歌う工藤礼子さんの姿は、あぁこの人はやっぱりすごいパフォーマーだな、と思わせた。
一番前の席に座って、リュックサックから何か取り出そうとガサガサ音を立てている人の動きが大きくなっているような気がした。
そうかもう一人演奏者が加わるのかな、この人はマヘルのドラマーじゃなかったっけ、と思った。
太鼓やシンバルをとりだしてステージ脇に置いていく、でもその取り出す音が不自然に強調されてる気がして、ピアノや歌より会場内に大きく響いてきた。
それでも演奏はかまわず続いていく。

その人はステージに上がってシンバルや太鼓をたたき始めた、相変わらず続けられている演奏とは全く関係ない音を出し始めた。それからいきなりステージの端までダイブして、シンバルを思いっきり鳴らしたりした。ピアノの足の下でねっ転がっていびきをかいたり、工藤冬里の弾くピアノを子供のように覗き込んだりした。
それでも演奏は関係無しに続いていく、もっとセンチメンタルになった気もする。

おかしくてたまらなくて、会場はもう皆笑っていたけれど、僕はもう涙が止まらなかった。
なんて素晴らしいものを見せてくれるんだろう。
こんな繊細で、大胆で、観客に対して表現するという行為のすべてを熟知している姿は見たことないぜ。
この場所にこんなすごい人達がいるなんて信じられない。

あぁそうだな、たとえ大きな組織に入ってなくても、世界中を飛び回っていなくても、たった一人でも、
音楽が、あるいは芸術が人に与えるはずの勇気を、一個の軍隊を吹き飛ばすくらい表現することはできるんだな。
僕が工藤冬里の音楽を大好きなのは、彼の音楽がそのことをよく分からせてくれるからで、だから僕に必要なんだ。


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